【仲宿八幡神社】(なかやどはちまんぐう)
仲宿八幡宮は、八幡東区祇園町に位置する由緒ある神社です。
その由来は、今を去ること1800年余り前に遡ります。
第14代仲哀天皇のお后の神功皇后は、筑紫の香椎の宮でお亡くなりになられた天皇に代わって、皇子(後の応神天皇)をお腹にみごもられていながら、軍臣の動揺を考えられて天皇崩御の事実を隠して、男装をして三軍を率いて九州騒乱の源である新羅征伐に出征されました。
この間、北九州を中心に行動し、苦節の末、三韓をまとめられたということです。
そこに、「三韓を従えども行先謀反の者あり、厚く慎み給へ」との神のお告げがあり、いまの地に豊山の宮を造らせ、皇后自ら仲宿(なかやどり)にて忌み慎み斎籠し、豊山の宮共々、皇祖の神の教えままに、すべての神々を祭られたということです。
皇后が大和に帰られたのち、この仲宿の地の祭祀を行い、祭場に村人等の祠を建立し、産土神(うじがみ)として奉り、幾度となく社を増改築されました。
ことに、大内氏、麻生氏、近世に至っては、黒田氏の崇敬が篤く、現社殿は昭和36年に改築されたものです。
【宝永手水石】(ほうえいてみずいし)
徳川綱吉の時代(宝永四年、1707年)、日光・東照宮の石大鳥居の額面石として、石山(現在の東川頭町)から切り出して、前田海岸より船積みしようとしましたが、ひびが入ったため断念し、前田村の氏神の手水石として奉納したものです。
戦後、新しい石と交換されたということです。
【胎石神社】(はらみいし)
神功皇后が、この地に来られた時、奇石を見られて、「吾が皇子をはらみし腹に似たり」と、自ら奇石を崇められ、その後の万治元年(1658年)に社殿を建立されました。
以後、村里の妊婦が安産祈願に詣でるようになったということです。
また、奇病も治すということで、今なお、難病平癒を祈る人が多いということです。
ご神体に触れば、なお良いということです。
【操の松】(みさおのまつ)
大字前田字和井田(現在の八幡製鉄所構内)の浜辺で、松の木に縛られて非業の最後を遂げた狭吾七命(さいごしちのみこと)と、その後を追ったお小夜命(おさよのみこと)の二人の純愛を示す松です。
この松は、今なお、朽ちながらも殿内に保存されています。
この松は、二人の愛の永遠を願い、神木「操の松」と呼ばれています。
「恋むすぶ 松葉の守りいつまでも 守り守りて ひとつにぞなる」
【お小夜観音菩薩】(おさよかんのんぼさつ)
祭神、お小夜・狭吾七命の御霊を観音として、八幡製鉄所および従業員が一体となって心をこめて奉製したものと言われています。
昭和28年に大字前田字和井田(現在の八幡製鉄所構内)から遷座されました。
明治後期の作と伝わっています。
【牛守神社】
今からおよそ二百年前、豊前の国、下毛郡の村に、狭吾七(沢七)という若者がいました。彼は庄屋の家に育ち、早死にした父の跡を継ぎ母と二人暮らしをしていました。
飢餓が続く中、増納の命令を受けた彼は、農民の窮状を訴えようと思いましたが、「お上の命に背くとは、見せしめのため打ち首か、所払いにする」そんな情報が伝えられ、母や村人と相談して、一時、村を離れることを決心し、役人の追手から逃れるため、筑前の国、前田の里の百姓の家にかくまわれ、村人のあたたかい手当を受けました。
そのころ、当宮の北側の旭観音堂に巡礼中という、おさよという美しい娘がいました。
前田の若者の人気の的となっていましたが、いつしか同じ境遇の狭吾七とおさよは恋仲となっていました。
よそ者に彼女をとられてなるものかと、当宮の夏祭りの夜、若者数人は彼を前田海岸につれ出して、牛にひかせて海岸を走り、松の木にくくりつけ、たいまつの火まで放ちました。 死に至るとは思わなかった若者はおどろいて逃げていきました。
いとしい狭吾七の死を知ったおさよは、生きる力を失い「せめて、あの世で一緒に」と、後を追ってしまいました。
彼の死後、この地区には忌日ごとに火災が発生し、牛が死んでいきました。
「これぞ狭吾七の怨霊ぞ」と、村人達はこぞって二人の霊をとむらい社を建てました。それからというもの、怪火や疫病がなくなりました。
昭和二十八年、前田海岸の「和井田権現」を八幡製鉄所の庇護のもと、当宮へ遷座し、台良の里にあった牛守宮と合祀し、牛守神社として祭りをつづけ、火災除け、厄難除け、恋の結び神として、神威を高めて今日に至っています。
かの有名な北原白秋も「鉄の都」と題する詩を、二人をしのんで歌っています。
その歌と踊りは、今も伝えられています。
【猿田彦大神】(さるたひこのおおかみ)
この神は道祖神とも呼ばれ、智の神、幸の神、導の神と呼ばれています。
現在の八幡中央高校グラウンドは昭和28年まで、夫婦池があり、二つの池のさかいに祭られていました。(創祀 天保十年とあります。)
昭和62年に当宮へ遷座されました。
【奥津島比賣命】(おきつしまひめのみこと)
この神は天照大神の御子で、宗像三神の中の一神です。
前田海岸の漁師等の信仰が篤かったと言われています。
嘉永五年(1852年)、「津島神社」として大字前田字波戸(現在の八幡製鉄所構内)に祀られました。
製鉄所の創業に伴い、前田小学校校庭に遷り、昭和46年の小学校の改築によって、再び氏神境内に遷されました。
海上交通の守護神と共に、広く交通安全神となっています。
【猿田彦命】(さるたひこのみこと)
この神は、天上と地上の分岐点に居り、邇邇芸命が高千穂の峰に降臨された時に、ご一行の道案内として先導した神です。
道の神、人道の神、幸の神として津々浦々に祀られています。
庚申様ともいい、我等が就寝中、庚申(かのえさる)の夜に、天上に舞上がり天神に我等の愚業を告げるといいます。
怖いので、夜も徹して朝を待つといいます。
【稲荷神社】(いなりじんじゃ)
宇迦之御魂神です。
一切の食物を司る神です。
『神代記』に「保食神腹中に稲生れり」とあります。
イネナレリがイナリと転じ、御食津神となりました。
三狐神とも書き、狐が神の使い姫となりました。
食物の安定、生活の安定、商い事の安定から商売繁栄の神となりました。
【前田観音堂】
このお堂は、前田観音堂といい八幡西区藤田町浄蓮時の所属仏堂です。
寺伝によれば、今から四百年前の花ノ尾城主 麻生摂津守が信仰されていた「観世音菩薩」を祭祀したのが、前田観音堂の濫觴と伝えられています。
境内には、十一面観世音菩薩、十三石仏等、そして区画整理に際して附近に祀られていた隠れ地蔵尊を合祀しています。
また、このお堂は、地元に古くから伝わる「おさよ・沢七(さご七)物語」の「おさよ」が逗留していた観音堂で、おさよ・沢七の両霊の菩提をとむらうために「おさよ・沢七の位牌」、「おさよ・沢七地蔵尊」、そして、「沢七のお墓」をおまつりしています。
毎月、24日がおまつり日で、観音堂に祭祀する仏様・お地蔵様、そして、おさよ・沢七両霊の供養を厳修しており、特に8月24日の地蔵盆には、前田地区に古くから伝わる北九州市無形文化財「前田の盆踊」が奉納されます。
【沢七(さご七)の墓】(写真の右)
「おさよ・沢七(さご七)物語」の沢七は、天明四年(1784年)8月20日に亡くなりました。
当初、沢七の遺体は草木原の四方(字柏ノ木という所で、今の桃園アパート水タンクの西方低地(今はそこも整地されています))に葬られ、名もない自然石を置いて墓石とされていました。
長い年月の間に、無縁仏のようになり、たいへん粗末になっていたので、大正の頃に、故大和利之吉・市太郎氏等の昔からの人々が話し合い、おさよが参籠した前田観音堂へ改葬しました。
移動に当たっては、地区の人々やお寺さんにも随喜していただき、多くの人々によって「ぜんのつな」を引き、沢七の墓石と共に墓の下の土を観音堂へ移し、大法要を営んで安置しました。
なお、写真の墓石の左は、おさよ・沢七地蔵尊です。
【鳥野神社】
古くは種子神社といわれ、鳥野の神を祭っています。
後々、高麗の神を合祀して貴船神社といっていましたが、大正時代に黒崎の春日神社があったこの地に移転し鳥野神社と改められました。
【八束髪神社】(やっかひげ)
京において天禄元年(970年)、初めて祇園祭が官祭として執り行われたことから、これに習って国内の津々浦々にその風習が広まりました。
ここ、麻生庄においても、元久元年(1204年)6月に、花尾城主がこの地(上の名)において祇園祭を神主の波多野重満大夫を定勝として祭儀を行いました。
すなわち、この郷内の祇園祭の発祥の地ということです。
時の将軍、源実朝の世から、連綿と祇園祭を厳修し、この前田はもとより、この郷内の悪疫退散を祈り続けた聖地とされています。
元禄14年(1701年)に、村民が大石鳥居を奉納しました。ことに黒田公の尊崇は篤かったということです。
今の黒崎祇園などの祭りも、延宝年間(470年前)、黒田公の命令により、この本社の分霊を藤田村に行い、祭ったとされています。
昭和24年、大東亜の戦災を受けて、この地の氏神である仲宿八幡宮の御神霊を遷御して、その大鳥居も移したということです。
昭和62年、区民の願いにより、仲宿八幡宮に勧請し、ここにその分霊を祀ることになりました。
八束髪(やっかひげ)とは、祭れる処の神の建速須佐三男命(たけはやすさのおのみこと)の御顔の様相から付けられた名です。
後にこの社を祇園神社と呼びましたが、明治維新に元の社号に戻されました。
共に、御妃の奇名田比売命(くしなだひめのみこと)も祀られています。
【龍潜寺】(りゅうせんじ)
慶長11年(1606年)に、日諦(にったい)上人が、日蓮上人の生誕の地である小湊誕生寺の火災後の復興を託され、八幡への移転再建を行ったお寺です。
千葉県安房郡の領主だった里見家9代の義康公の菩提を弔ったお寺でしたが、慶応2年(1866年)10月に、火災でお堂が焼失し、廃寺寸前に陥ったということです。
その後、明治9年(1876年)に、日諦上人が管長から誕生寺復興の特命を受け、大本山貫首住職中の明治11年に、移転再建を実現したものです。
日諦上人は天保12年(1841年)に八幡東区前田で生まれ、13歳で出家し、明治7年4月、前田村に戻った日諦上人は上野与一郎の帰依を受け、屋敷内の仏堂で法華経の布教を始め、これが龍潜寺の始まりと言われています。
その後、管長から誕生寺復興の特命を受け、明治9年から3年をかけて再建を果たすことになります。
地元では、この龍潜寺のことを「にったいさん」と親しみを込めて呼んでいます。
【九州国際大学】
九州国際大学は、北九州市八幡東区の平野地区と枝光地区の2つのキャンパスに中学校から大学院までの課程を有する学校法人です。
北九州の地の利を生かし、国際化、情報化、地域共生や社会貢献などの教育に力を入れながら、 大学キャンパスを地域の方に開放するなど「夢のある学園づくり」、「魅力ある学園づくり」をモットーに、21世紀を展望した新たな学園構想を進めています。
九州国際大学・大学院では、大学院、学部、図書館、教育情報ネットワークセンター、エクステンションセンター、地域連携センターがあります。
付属学校には、「九州国際大学付属高等学校」および「九州国際大学付属中学校」があり、併設型中高一貫校として、北九州屈指の進学・スポーツの実績があります。
九州国際大学の創立は昭和22年となっていますが、そのルーツは古く、「九州法学校」が開設された昭和5年にまでさかのぼることになります。
この学校は九州帝国大学(現在の九州大学)法文学部の先生方が地域の勤労青年のための夜学として設立したものです。
昭和15年にはこの九州法学校が「九州専門学校」となり、昭和22年には戸畑地区移転により「戸畑専門学校」として生まれ変わることとなり、この学校が創設されました。
地域の発展とともに、昭和24年に「八幡専門学校」と改称、昭和25年には「八幡大学」として新制大学の仲間入りをしました。
その後、昭和33年に第一次ベビーブームの進学先として付属高等学校(男子部)を、また昭和38年に女子の普通科進学校として付属高等学校(女子部)を開校しました。
さらに、平成元年には「学校法人九州国際大学」と名称を変更し、平成9年には学園創立50周年を迎えています。
現在もなお、大学の平野地区(北九州市八幡東区)への移転統合事業ならびに枝光地区高等学校、中・高等学校の再整備を続けています。
学園創立50周年記念事業として、約5万6千平方メートルある平野地区に大学を移転統合し、昼夜約2,500人の学生が新しい教室、施設で学んでいます。
このキャンパスはJR鹿児島線「八幡駅」を降り、山手に向って歩くこと約8分、国際協力機構(JICA)九州国際センターと、国際村交流センターに挟まれた国際通り沿いにあります。
この一帯は北九州市から国際交流ゾーンの指定を受け、海外からの研修生や留学生との交流も盛んで、居ながらにして異文化に触れることができます。
またキャンパスの近くの商店街に加えて、八幡駅前再開発事業が進められ、新しい学生街を形成しています。
【八幡中央高校】
八幡中央高校は、北九州市八幡西区元城町にある男女共学の県立高校です。
1916年(大正5年)に開校した八幡町立実科高等女学校を前身としており、2006年(平成18年)に創立90周年を迎えました。
設置課程には、全日制課程として、普通科の一般コースと芸術コース(美術専攻・書道専攻)があり、定時制課程として普通科があります。
なお、校訓は、「自律・敬愛・創造」を掲げています。
特色あるコースとして「芸術コース」が、1998年度(平成10年)に、伝統の中に新しい息吹を求め、また、地域からの強い要望と大きな期待に応えるために、併設されました。
このコースには、美術・書道の2専攻から成り、福岡県全域から受験することができるので、将来芸術活動を志す中学生にとっては魅力的なコースとなっています。
全国規模のコンクールでは幾度も1位になるなど、コンクールの上位常連校として全国的に注目を集めています。
【花尾中学校】
花尾中学校は、北九州市八幡東区桃園四丁目にある市立中学校です。
1929年(昭和4年)に、尋常小学校として位置指定を受けた後、1930年(昭和5年)に「花尾高等小学校」として開校しました。
その後、1941年(昭和16年)に「花尾国民学校」となり、1945年(昭和20年)に、校舎を焼失した福岡県八幡高等女学校が一時移転・併置し、1947年(昭和22年)に、学制改革により「八幡市立花尾中学校」となりました。
1993年(平成5年)に、新校舎が落成し開校60周年を迎えた後、1999年(平成11年)に、北九州市立陣山中学校と統合し、現在に至ります。
【花尾小学校】
花尾小学校は、北九州市八幡東区祇園一丁目にある市立小学校です。
前身は「八幡市立前田小学校」で、平成16年(2004年)に花尾小学校になりました。
前身の前田小学校の校庭には創立80周年の記念碑が立っていましたので、その歴史はかなり古いものがあります。
なお、花尾小学校では、平成25年(2013年)11月の末に、創立10周年の年記念行事が行われました。
【北九州市立八幡病院】
市立八幡病院は、北九州市八幡東区にある医療機関で、北九州市が運営する病院です。
(福岡県の災害拠点病院にも指定されています。)
診療科目としては、「内科」、「循環器内科」、「小児科」、「外科・呼吸器外科」、「整形外科」、「脳神経外科」、「形成外科」、「麻酔科」、「耳鼻咽喉科」、「眼科」、「精神科」、「放射線科」、「救急科」、「泌尿器科」、「皮膚科」、「婦人科」、「歯科」などがあります。
また、救急医療においては、救命救急センター、第二夜間休日急患センター、小児救急センターを設置し、北九州市の計画により、西部ブロックにおける「第3次救急指定病院」として位置付けられています。
(2次指定されている、産業医科大学病院や、九州厚生年金病院などのエリア内の病院と連携を密にしています。)
【桃園公園】
桃園公園は、八幡東区桃園三丁目にある市が運営する公園です。
子供達に人気の「わんぱく広場」があり、お休みの日は子供連れでにぎわっています。
同じ敷地内には、「児童文化科学館」や「テニスコート」、「プール」などがあり、また、道路を隔てて、「運動場」や「野球場」もあります。
主な施設として、野球場、室内プール、屋外プール、テニスコート、弓道場、運動場、児童文化科学館、わんぱく広場、ジョギングコース(1周550メートル)などがあります。
【北九州市立児童文化科学館】
児童文化科学館は、八幡東区桃園三丁目にある市が運営する桃園公園内にあります。
幼児および小・中学生の児童・生徒に対して、児童文化の向上と科学教育の振興を図ることを目的として建てられました。
展示施設では、本館1階で、「水のエネルギー」、「まほうの鏡」、「シーソー・バスケット」、「風速体験室(ウインドシミュレーター)」、「スロープゴルフ」、「おちないボール」、「滑車とてこの実験」、「ボールの運動」などを、本館2階では、「ルパンウォーク」、「電磁石と力比べ」、「まわるタマゴ」、「スパークボール」、「パソコンワークショップ」などを、天文館2階では、「太陽系運行儀」、「惑星体重計」、「惑星の軌跡」、「月の満ち欠け」、「四季の星座」などを体験することができます。
また、天文館3階にはプラネタリウムの施設もあり、季節毎のプラネタリウム番組を職員の開設で楽しむことができます。
(また、「星の観望の夕べ」(観望会)では、プラネタリウムでの星空解説の後、天体望遠鏡で星空を眺めます。)
また、季節に応じた子ど向けの行事(クリスマスコンサートや、豆まき、春の文化劇場などなどのイベント)もあり、無料で楽しむことができます。
【北九州市立桃園運動場】
北九州市八幡東区桃園の桃園公園内にある運動場です。
一周が550mで、11,000人を収容可能です。
また、夜間照明があるので、6時~21時まで利用することができます。
【北九州市立桃園球場】
桃園球場は、北九州市八幡東区桃園の桃園公園内にある野球場です。
この球場では、高校野球の福岡県(北部)大会などでも利用されています。
硬式、準硬式、軟式、ソフトボールが可能で、夜間照明はありません。
6時~18時 (日没まで)利用することができます。
両翼が100m、中堅が125mで、収容人数は10,500人となっています。
同心円状に円弧を描く膨らみのある左中間右中間で三塁打が多く出る球場で、ファウルグラウンドも広く、一塁線三塁線の打球が三塁打となることも多く外野も土なので球足も速いということです。